天草陶磁器

1.天草陶磁器の始祖 上田宜珍(よしうず)

上田家は天草西海岸にある高浜という所の庄屋でした。代々民のために産業を興しますが中々うまくいかず、陶石の採掘に全力をつくしていました。7代目宜珍は、採掘だけでなく、長崎から絵付け職人を呼び焼き物の技術を高め、オランダ人との貿易を開始するなど発展に尽力しました。また「天草島鏡」という天草の歴史書を作るなど、天草の文化に多大な貢献をしました。

2.瀬戸焼とのつながり

瀬戸物として有名な瀬戸焼は江戸時代中期、有田焼に押され生産が減少していたため、加藤民吉は本渡近くの東向寺住職が同郷であることを頼りに天草にやってきます。(1804年か1807年と言われています)
上田宜珍は彼を心よく迎え、便宜を図り、伊万里や有田、高浜焼の技を習得させました。尾張に帰った民吉はその後瀬戸焼の中興の祖と呼ばれるようになりました。

3.陶石から陶土輸出へ

天草陶石は品質も世界一を誇りますが、その中で少し品質が落ちる低品位陶石の埋蔵量が5~6億トンと、とてつもない規模を誇っています。今この活用が模索されています。原石である陶石だけでなく磁器を含め、陶土段階まで加工して産業に活用するという、陶石の島から陶磁器の島へと動き始めています。

4.江戸時代からある窯元

水の平焼は1765年(明和2年)に創業し、赤海鼠色(着色柚)が特徴です。内田皿山焼は17世紀から続く窯元。古内田皿山窯は磁器の窯元では日本で2番目に古い窯跡と言われているなど、天草陶磁器の窯元は古い歴史を誇ります。